2009年3月14日土曜日

Sarie Maraisの研究 2

というわけで
 Sarie Marais は Afrikaansを学ぶスタートとしてはふさわしい歌だとわかった。
1.Afrikaansで書かれている。中味も易しくわかりやすくおぼえやすい。
2.歌いやすくおぼえやすい。いい歌だ。(敵の英国軍のマーチになったぐらいだ。)
3.歌詞、音源、訳、楽譜、がインターネットで簡単に手に入る。、
4.歴史もあり、現在、Afrikaansを話す人たちに広く愛唱されている。  
5.しかも、 あまり、日本では有名ではない。

http://www.sariemarais.com/tuis.html 
というのもあった。そのサイトの趣旨に
1) The aim of this website is to promote Afrikaans and to share the South African and Afrikaner culture with those who want to share in it.
とあった。
Afrikaner つまり、南アフリカ先住移民の子孫 の言語と文化を促進することだそうだ。
結局 Sarie Marais は南アフリカのオランダ系白人の言語と文化のシンボルみたいだ。

ところが、南アフリカは白人だけが住んでいるのではない。
もともと原住民のアフリカ黒人住んでいて
そこへ白人たちが侵略したとも言える。
オランダ系白人も英国軍から迫害を受けたが、
この2つの白人たちもいつも原住民のアフリカ黒人を迫害していた。
白人たちはアパルトヘイトで黒人たちを隔離して搾取した。
南アフリカが自然と鉱物資源が豊かだから狙われたとも言える。

ソウェト蜂起
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%BD%E3%82%A6%E3%82%A7%E3%83%88%E8%9C%82%E8%B5%B7#.E6.9A.B4.E5.8B.95.E3.81.AE.E8.A9.B3.E7.B4.B0
「略
1976年に
「すべての黒人の学生がアフリカーンス語を学ぶこと、および中・高等学校での数学、社会科学、地理学と歴史をアフリカーンス語で教えることを強制したアフリカーンス語中間法令」
にアフリカーンス語を「白人支配の象徴」と見なす黒人、特に学生達の間に激しい反発が起こった。

976年6月16日の朝に、学校でアフリカーンス語の学習を強制されることに抗議するため、何千という黒人学生がデモ行進のために集まった。

ひとりの白人男性の警官がピストルを引き抜き銃を発射したことで、パニックと大混乱が起こった。

6月25日までには死者176人、負傷者1139人、逮捕者1298人(警察発表による)
の、前代未聞の大惨事になる。」
(私がソウェトの記念館にいったとき、たしか死者660人と書いてあった。)
The Soweto Uprising was a turning point in the liberation struggle in South Africa.
http://en.wikipedia.org/wiki/Soweto_uprising
☆ソウェトの記念館
ヘクター・ピーターソン博物館
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%98%E3%82%AF%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%94%E3%83%BC%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%82%BD%E3%83%B3%E5%8D%9A%E7%89%A9%E9%A4%A8

このときからマンデラさんたちが活躍してくるのである。

もう
「私は言語問題についてアフリカの人々に相談しなかったし、そうするつもりもない。アフリカ人は「ボス」がアフリカーンス語か英語しか話さないことに気付いただろう。両方の言語を知っていることはその人に有利になるだろう。」
なんて、言われなくなった。
なにしろ
「ジャーナリストによって撮られたヘクター・ピーターソンの死体の写真は怒りを呼び、アパルトヘイト政府への国際非難をもたらした。多くの西洋の国において、南アフリカ政権に対する抗議行動が起こった。国際連合は南アフリカにさらに多くの制裁を課した。」

ヘクター・ピーターソンの死体の写真
私も記念館で見ました。兄が死体をかかえて、そのそばを泣きながら妹が歩いています。
☆Hector Pieterson
http://en.wikipedia.org/wiki/Hector_Pieterson

「この暴動がアパルトヘイトの終わりの始まりを意味した出来事であると広く考えられている。この暴動は国中に反響を呼び、暴動の後には、多くの黒人の市民がアパルトヘイトの現実に目覚め抵抗を始めた。
一方で若干の白人の市民も政府に対する支持を撤回した。政府による取り締まりが続いたにもかかわらず、人民の不安とアパルトヘイトに対する反対は 1980年代の終わりまで成長し続けた。国内外の圧力により、1990年から1994年の間の交渉を経てアパルトヘイトは終わった。」

というわけで、現在はかつての支配者オランダ系白人の言語アフリカーンスは
かつての地位を失い、南アフリカの公用語の一つとなった。

(マイナー言語フェチの私にはむいているかもしれない。)

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